菩薩（ぼさつ）の夢

かつて一緒に、工場内作業に明け暮れた仲間の一人のために。

どうか今も、お元気でいらっしゃいますように。

菩薩（ぼさつ）の夢

あなたの目には虚空に浮かぶ多宝塔が見える

塔の中で微笑む仏陀の姿が見える

あなたの夫は若くして

あなたとあなたの娘を残して逝った

それから独りで三人の娘を嫁に出したあなた

けれど晩年のあなたに残ったものは

動かなくなった右足だけではなかった

今あなたは三千世界に向かって大音声を発する

それはかつて宮沢賢治が吐血しながら唱えた経文

末法の世になれば正法を流布するために

砂丘の砂粒よりも七海の水滴よりも

大量の菩薩たちが大地を裂いて出現する

その菩薩の一人が自分なのである

そう信じて獅子のように法を説くあなた

人に笑われてもあざけられても無視されても

あなたは休むことなく法を説く

私欲も安楽も平穏も捨てて獅子吼（ししく）する

そしてすべての人のために

その皺だらけのぶあつい掌を合わせる

神を持たないおれのためにも合掌してくれる

「あたしにゃあ、わかる。

あんたも菩薩の一人に間違いなか。

あんたも世界平和のための人材になりんしゃい。

あんたも世界平和のために祈りんしゃい」

あなたは祈る

十五才で病死したおれの親族のために

足場を踏み外して墜落死した従業員のために

地下鉄で毒ガスを吸って死んだ人々のために

責任能力のない者に惨殺された人のために

実父の子供を三人産んだ少女のために

誘拐され臓器を売買される子供たちのために

治療法の見つからない病気で死んでいく赤ん坊のために

食べ物も毛布も薬もない難民のために

片足が吹き飛んだ後も地雷の埋まっている畑を耕さなければならない人々のために

銃弾や爆風の中で目を閉じていった人々のために

あなたの夢である恒久世界平和のために

あなたは祈る

あなたの安楽な生活を捨てて祈る

あなたのすべてのさいわいをかけて祈る

世界が平和になりますように

世界が平和になりますように

世界が平和になりますように

「あたしにゃあ、わかるったい。

あんたも菩薩の一人に間違いなかったい。

あんたも世界平和のための人材にならないかん。

あんたも世界平和のために祈らないかん」

今日もおれにそう説いてくれるあなた

すまない　おれは菩薩になんてなれそうにないよ

けれどせめて祈るよ

あなたの知らないところで

だれの教えに基づくこともなく

どこの国の言葉でもなく

神を持たないおれだけのやり方で

あなたが血と骨で築いた信念のために

あなたのもう動かない右足のために

あなたの夢である恒久世界平和のために

おれは祈る

事故で犯罪で死病で殺戮で紛争で戦争で

生活を生命を尊厳をむしり取られた人々のために

おれは祈る

おれのすべてのさいわいをかけて祈る

あなたのように

菩薩のあなたのように

（1997年　夏の日記に記す）